えす山の日記

自分用のゲームの感想日記とか

ATRI~My Dear Moments~ Good&Badルートの感想考察

Steamセールで友人にお勧めされたのでやりました.

key作品が好きな方向けな作品だと思います.アトリちゃんかわいい.リリカちゃんかわいい.フロントウィングはグリザイアシリーズのみやったことがあります.グリザイアも大好きです.

 

プレイし始めてすぐわかると思いますが,水や花火の表現がとってもきれいでした.

 

はじめに泣いちゃったのは,リリコのおうち事情や勉強大好き二乗関連でした.

Goodルート以降はずっとお涙ぽろぽろ状態.別れることが決まっている中での愛の物語というのは辛く美しいものです.「こなたよりかなたまで」や「加奈~いもうと~」なども別れが決まっている作品ですが,相手がヒューマノイドという点でまた少し違ったテイストが味わえました.

 

以下考察的なsomething.

 

序盤に名付けることについて言及するシーンがあります.以前個人的な命名についての考えがあるので添付します(書き直すのも面倒なので).

 

                                        

固有名詞について.固有名詞,特にその人の名前は親から授けられた,大切で意味のあるものだと考えられている.しかしながらその意味や重要性というものは,本人やその近親者の間でのみ共有されているものであり,第三者にとっては何の意味も持たない識別する記号に過ぎない.

その第三者の間で重要になるのは,その呼び方である.その呼び方でその間柄の親密性が決まる.例えば本名はいずれのコミュニティでも通用するが,あだ名は一定のコミュニティでしか通用しないし,恋人同士にしか通じないような呼び方も設定できる.つまり親密性は,そのコミュニティの広さに比例し,それは呼び方が通じる範囲に一致する.

以上より実際は名前そのものの意味などはどうでもよく,その通じる範囲こそが重要なのである.

ある一定の,名前が通じるコミュニティとして最大のものは人類であろう.それゆえに,無機物の固有名詞は人類全体に(言語の壁はともかく)通じるし,その無機物への愛,親密さは皆無に等しい.

しかしながら時に人間は,無機物に狭いコミュニティでしか通じない固有名を付ける場合がある.例えばおもちゃに名前を付けたりだ.その名前が通じる範囲を問わず,そういった無機物に一定範囲でしか通じない名前をつけることは,その無機物に生命を与えたものの考えることができる特別な行為である.名前を付けるほどの道具は,磨いたり整備を欠かさなかったり大切に扱うはずである.もちろんここでも範囲が狭いほど,親密性や愛を感じている原則は漏れない.

このことは無機物に限らず,広い意味ではペットに名前を名付けるのだって同様である.もちろんペットとなる動物に命が宿ってることは言うまでもないが,そこへ名前を付けるという特別な行為を行うことで,人は初めてそのペットが命である,生きていると認識し実感するのである.だからこそ自分の飼うペットは食べることができず,牧場の牛は食うことができる.この名前の有無によって,食べる食べられないの具体例は通説だと思うが,名前を付けること自体が生命を与える行為というほど考えいられていないように思う.人が子の名前に悩むのは,もちろんいい人生を過ごしてほしいというのもあるだろう.しかし,表意文字のない国家では,表意文字がある国家より,子供を愛していないかと言われれば違うだろう.つまるところ,親が子に名前を与える時悩むのは,それがその子に生命を与えるからである.名前などどうでもいいと上述したが,本当にどうでもいいと思うのであれば,子は持たない方がいいだろう.それは子に与える生命の重要性を認識していないからである.

(注)無機物に生命を与えると書いたが,それは有機物の例と同じ生命であり,文字通り命を与える,擬人化するということではない.もちろん擬人化する場合もある.

                                       

その後,アトリの感情が模倣であると判明しますが,ナツキはそれでも心のどこかで本当に感情があると信じています.本人は「見たくないものを見ない」と分析しています.私は上述の引用のように考えていますので,名前のあるアトリは感情はないかもしれないけど,生きていると思わざるを得なかったのではないかと思いました.だからこそ,アトリが好きという感情を捨てるという選択は微塵もなかったでしょうし,アトリの最後の命令をさがしましたし,生きていると思っていたからこそ感情があると思わずにはいられなかったんだと思います.

これはのちにヤスダが道路や紙の例で,それらには心を持っていると思わないという風にいいますが,それは名付けていないからと帰結できます.

哲学的ゾンビの話も浮かびましたが今回は関係ないでしょう.人間が感情を持ちヒューマノイドは持てないという考えが重要な要素でしょうし.

 

エデンで過去のマスターがノンコでないとわかってもなお,最優先すべきはナツキの命と言っていました.その時点で現在のマスターもナツキでないはずなのに(結局はそうだったので,過去の記憶から判断したといえばそうなのですが),こういうということは,アトリに感情があったとしか思えません.ナツキはロボット三原則のひとつの遵守と感じていたようですが.

その後も訳もなく甘えんぼアトリになったり,その理由が起動しないことへの恐怖で合ったり,やっぱり感情はあるようにしか思えません.当人は有用性の提示と考えていたようですが.

なんといっても,その後のミナモに相談したいが学校に行ってはならない命令のために悩むシーン.葛藤という感情.

その後の過去のログでの何かのしるしは涙跡でしょうか.

Badルートでは校舎から落ちた直後に,目に光が戻っています.

Goodルートは言わずもがな.

結局元から感情があったのを隠してただけなので,こんな長々と書くのもあんまり意味がないですよね.

 

久しぶりに泣きゲーをしたので心がぐしゃぐしゃです.trueも楽しみです. 以上