えす山の日記

自分用のゲームの感想日記とか

美少女万華鏡-神が造りたもうた少女たち-の感想と考察

 

=全体の感想=

良作。ですが、前作までよりかはちょっと直線的過ぎたかなあと感じました。そこは好き嫌いですね。依然テーマ性はあります。

アンドロイドたちが滅ぼした先の果ての世界でひまわりを咲かせようとする主人公、龍之介。彼だけは歴史を、真実を知る。そして彼はアンドロイドたちを蘇らせる。人と精密なアンドロイドに違いはあるのだろうか。権威の発言をうのみにし、差別をする大衆よりかは理知的で自分で判断を下すアンドロイドの方が人と言えるのではないか。そしてその差別に怯え、見て見ぬふりをする自分はどうなのだ。自分だけが旧世界の利を得ていていいのだろうか。

人を人足らしめるものとはなんなのか。誰しもが考えている、考え続ける永遠の命題ですね。知性があることでしょうか?違いますよね。個人的には程度を考えず、文化的創作を行えることが一つだとは思っています。今作では孤独を感じ、他者を求めることでしょうか。

鳳凰院凶真味がある。。。そしてマッドドッグはスティーヴ ブシェミ味がある。。。

 

アリスツンデレなのは、ツンデレモードを切り忘れたせいかなーと思ってたけど、単にツンデレだった笑

 

=だらだらと=

=リリー=

拗らせ童貞の暴走もやばいけど、リリーの言葉遣いもやばくて笑ってしまった。

アリス、ドロシーが死んでしまったのはGAIAがやったのか、本人たちがやったのかなー。まああとはリリーや主人公までもロボットの可能性もまだ疑っている。特に龍之介。人とは何かの物語で龍之介が人間で確約されている状況はない。

 

=アリス、ドロシー、アリス&ドロシー=

わかってたけどバレるよねー。ばれなきゃ差別なんて描く意味ないし。龍之介が「彼女たちは人間だ!」と叫ぶしーんは重要ですよね。

マザーが本当の母親っていうのは声質があまりにも人過ぎることからわからなかったわけではないけど、さすがに泣いた;;

悪魔=ロボットは伏線としてあからさま過ぎたなあ。

ハーレムENDは蛇足というか余計というか。。。というかリリーも龍之介も人間だったかー。

 

=考察=

以下はばっと書いた雑多なものです。

結局彼は人の条件をなんだとしたのか。このコミューンというものは人間が唯一住む共同体であり、人間である(と考えていた)龍之介にとっては世界そのものなわけです。そこで「彼女たちを差し出せば人間になる」「差し出さなければ悪魔、ロボットとなる」という条件を提示される。つまり「人を人足らしめる条件」というものが明示的に投げかけられているわけです。そして龍之介の選択肢は「差し出さない」のみ。龍之介の中で、人足らしめる条件というものは、二人と過ごす中で大きく変化したということでしょう。その確信を得た、選択をした龍之介は自身や二人こそが人間、そんな彼からすれば他のものこそ悪魔であり、だからこそこの選択肢直後からは村人たちが悪魔のように描写されます。

もう一つ、この作品は運命論というものを採用しているようです。故にリリーエンドと同じく、塔が燃え尽きてしまう。唯一変わった運命と言えば、二人が死ななかったこと。もちろん何故変わったかと言えば、リリーではなく、二人を愛したから。自分が表面上の人間という共同体を抜け、二人とともに違う意味での人間という種を選んだこと。その代償となったのは自らの顔、そしてもう一つ、所属する可能性のあった共同体ですね。つまりどちらの人間になるかによって、もう一つの可能性があった共同体を失うという運命だったわけでしょう(少なくともマッドドッグとリリーだけは最後まで龍之介の肩を持ってくれていたので、2:2の等価交換も守られています)。そして失った顔はブギーマンに近づいたという意味を持ちます。ブギーマンに近づいて初めて彼らが知性的で心の芯が通った人々なのだと知るというのは、人は所属する共同体の中までしか理解が及ばないということを表現しているのでしょうか。個人的にはそう思いましたが。そういう意味ではブギーマンの役割は小さいというか、都合が良すぎる気もしました。最近刊行された「訂正可能性の哲学」と照らし合わせても面白いのかなと思います。

結局「人足らしめる条件」という問いへの答えははぐらかされたままです。少なくとも「人足らしめない条件」ということは明示されていますが。キリスト教が廃れた未来ということがわざわざ描かれていますから、上で述べたような「孤独を感じ」「人を、隣人を愛する」という隣人愛に解釈を持っていくことも不可能ではないと思います。少なくともブギーマンたちはコミューンに住む人々を傷つけたりはしなかったわけですから、作中では誰よりも人間なわけです。だからこそ物語の結末で龍之介はブギーマンのコミュニティに入ったわけでしょう。

ハーレムルートは個人的に蛇足だと思うのですが、好意的に解釈するなら、自らコミューンという居場所を捨てる(おそらくひまわりも投げだしている)ことで、共同体を手放しているからハッピーなENDになっていると思います。まあこのENDではブギーマンたちと邂逅し、彼らの病を治癒することもなければ、ひまわりも咲かないので人類は途絶えてしまいます。ですから個人的には最大のBAD、リリーエンドに近い。リリーエンドはむしろリリーの愛がある故に、時間をかけて再起してまだひまわりが咲く可能性が残されている点で、希望があるでしょう。